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2004年05月16日

●熊坂ゼミテキスト

宮川匡代の分析をしました@熊坂ゼミimapcs
興味がある人は続きをどうぞ。

「宮川匡代」分析バイ小林悠


急に、竹田君に背中をつっつかれた。
「これ、吉田さんから。」
そういって4つに折りたためれたピンクのメモ用紙を渡してくれる。
竹田君の斜め後ろで恵子がパタパタって小さく手を振ってる。
「ン、ありがと・・・。」
開くと丸っこい文字で
「帰り、プチ行ってヘアゴム見ようよ。ゲタバコで待ってるね。」
と書いてあった。
オニの浜田センセが教科書を読み上げながら隣を歩く。
ドキドキしてるのは怒られると思ったからじゃない、
竹田君の手が意外と大きかったからだ。

宮川匡代のマンガは実に近代少女漫画だ。
主人公の女の子は皆平凡で、アイドルでもなければ宇宙飛行士でもない。ちょっと幼めだったり、受付とか秘書だったり、天然ボケだったりするかもしれないけど。でもそれはフツウの女の子(かわいくもない、頭も良くない、お金持ちでもない)が手に入れることのできる武器の提示になる。ちょっと素直になれば、ちょっと天然ぽければ、ちょっと女ぷりのいい仕事に就けば、会社や学校で、ちょっとよさげな人とのちょっと素敵なドラマがあるのかもしれない。別にすっごいお金持ちの人が相手じゃなくてもいいよ、開発室の若手NO1とかで。甘い甘い言葉で口説いてくれなくてもいいよ、誠実に好きだよって言ってくれたら幸せだよ(でもできれば雪のクリスマスとか、誰もいない夕暮れの教室とかが、いいな)。

美由紀と田代君はお似合いのカップルだ。
昼休みになると田代君はなんとなく3組のそばの廊下にいる。
美由紀はなんとなく教室を出る。それでいつも喧嘩みたいにしてじゃれている。
二人が手を繋いでるとこ、見たって噂もあるけど、なんか想像できないな。
いつも軽口叩き合ってるような気がする。
「ブータ、そんな食ったらますますブタになるぜ。」
「なによぅ、チビ、あんたなんて昔こんくらいしか背ぇなかったじゃん。」
それで田代君は今はもう大分高くなった背で美由紀の頭をぽんぽんっと叩いて笑うのだ。
「チビブタ!」
羨ましいな、なんていったらそんなもんじゃないよって、きっとすごく否定するだろう。
でもホント、羨ましいな。

宮川匡代のマンガはゴールが必要だ。
なぜならば、「その辺にいる平凡な私のその辺にいるかもしれない私だけの(:私だけの、はハンサムじゃなくてもお金持ちじゃなくても、清潔感があってお金に困っていない程度ならクリアという庶民感)王子さま」との「シンデレラ物語」をつむぐ為には「おしまいおしまい」が必要だからだ。ホンモノのシンデレラはガラスの靴を履いて王子様と結婚することがゴールだけど、私のシンデレラ物語はキスやセックスや結婚がゴールになる。現実の日常生活でそれがゴール性を持っているからだろう。94年度の中学生や高校生にとってキスはつきあうことの象徴だし、97年の高校生や大学生、OLにとってセックスがそうだったのだろう。もしくは結婚だ。ペッティングじゃ約束が分からない。

「こっち向けよ!」
怒った広弥の声がする。息が切れている。走って追いかけてきてくれたんだ。
なんかもうみっともなくてどうしようもなくて、
あたしは後ろ向きのままぶんぶんと首を振った。
「麻子。」
腕を掴まれた。見つめられた。
「なんか言えよ。」
ナミダが溢れてしまって、あたしはもう観念するしかなかった。
「だって、だって、あたしだって広弥のことスキなんだもん・・・。
 もうどうしていいかわかんないんだもん・・・。」
広弥は怒った顔のまんま、あたしを抱きしめた。
それで、あたしたちは初めてのキスをした。
レモン味だ、なんて聞いていたけどぜんぜんそんなんじゃなくて。
「男の子のクチビルってやぁらかいんだなぁ」
ってぼんやり思った。

宮川匡代のマンガはだから卵白のように軽い。
その軽さはすごく別マ的だし、大衆的で、美内すずえ作品にはないものだ。コンビニで毎週発売されるチョコレートの新商品みたいないに代替がいくらでも利く。それでも今宮川匡代はそのジャンルの少女漫画ではかなり上手い。平凡な私と王子様のもしかしたらあるかもしれないシンデレラストーリー::日常の中で起こりうるささやかなドラマ、は日常でさえすごく難しくなってきたこの時代に、インスタントな需要が増えているのではないだろうか。つまり、日常がドラマになりうる要素が増え、それは婦女たちの妄想が、宮川作品が生きる場所が広がったということだろう。その地に足の着いたシンデレラストーリーを描くには、時代を読み取る技術とマンガを描く技術が必要で、宮川匡代はその二つを難なくクリアしている。時代が進み、性描写や性行為に対する感覚が少女たちの中で大胆になっていく中で、宮川作品はもちろんそれに対応し、ゴールも手を繋ぐこと→キス→セックス→結婚と進化している。これは読者層の加齢も要因としてあるだろう。宮川匡代は活動の場をマーガレット→コーラス→別マと移している。おそらくコーラスになったときに第一のゴールの変化が起き、その後世間が進んで(純情じゃなくなって)別マを読む少女たちにとってセックスが当たり前となったとき、別マでもセックスをゴールにおいた作品作りを始めたのだろう。ゴールが変化する一方、シンデレラストーリーを伝える技術は変わらない。白っぽい背景にキャラクターのアップ、心の声の多様、「・・・っ」、「・・・だもん」、「信じらンない」。これは宮川匡代作品において大切なのはストーリーではなく、問題が起き、それを越えながらゴールにたどり着くまでの人物たちの心情の移り変わりだからである。そのため、雰囲気のある背景(雪のクリスマス、放課後の教室)でなければ背景もどんどんトーン(花柄、チェックなど抽象度高め)で埋めてしまう。また、エピソードも、皆一度は経験したことがあるような些細な甘酸っぱめの経験をスイッチとして使う。男の子が好きな女の子のお下げを引っ張るとか、ジャムのビンの蓋を開けてもらうとか。これはもちろんシンデレラストーリーが地に足をつけるための工夫だ。それらテクニックをもって作られたマンガは毎週コンビニや立ち読みで多くの婦女に消費される。

今日もまた課長に怒られた。
怒られているとき、ぼんやりと首筋を見ていたら、
なんか意外と筋っぽくて、ああ、この人も男の人なんだなって思った。
家に帰れば奥さんが待ってたりするのかしら。
左薬指に黒ずんだ銀の指輪が光ってる。
イジワルな人だと思っていたけど、ほんとはもっと別の人なのかもしれない。

彼が廊下で話してるの通りすがりに聞いちゃった。
バレンタイン、チョコレート欲しいんだって。
去年は2個義理チョコ貰っただけなんだって。
手作りチョコなんて貰ったら涙モノなんだって。
どうしよう、瞬間だけど、目、あった気がする。笑った気がする。
バレンタインまで、あと一週間だ。

宮川匡代のマンガを読む人は、乙女チックか。
否、そうではない。90年代が始まるころまでに乙女チックという言葉は意味を変えた。
かつてはルンルンランランだった乙女たちの年齢は早まりもせず、遅れもせず::それはもちろん女子中学生の発情期のことだが、発情していることを乙女な部分でカモフラージュすることを時代の変化が無くした。それにしたがって、近代少女漫画は乙女チックではなくなった。乙女たちは夢見ることやアイドルに熱を上げることをもちろん忘れたわけではないが、それが夢であることを自覚し始めた。アイドルが親しみやすくなったことも一因にあるかもしれない。夢が近づいてきたのだ。それに伴って乙女チックという言葉は意味を変えた。それはすでに無くなった幻の少女の像だ。かつて、乙女がそういうものであったという状態の記憶だ。今宮川作品をさくっとたのしむ婦女はけして幻の少女の像ではない。リアルに難しくなり、シーンが複雑になったこの世界を生きている女たちだ。地に足の着いたシンデレラストーリーをコンビニで読み、明日の現実が少しでも素敵なものとなるといいな、と憧れて(その憧れはすごく友達の彼氏をうらやむ視線に似ている)家に帰る、それは年をとる生き物である、女たちだ。

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